投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助動画検索<OBJECT>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.コミュニティ | 画像 ] [ 検索 ]

投稿募集! スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成

[PR] バイト短期 ショッピング枠現金化 福岡の求人・転職 美容整形長野 ハワイ旅行
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ teacup.ナビ ] [ 無料ブログ ] [ チャット ]
【From teacup.】この掲示板は投稿が一定期間無いため、各記事中に広告を表示しています。

全106件の内、新着の記事から30件ずつ表示します。 1  2  3  4  |  《前のページ |  次のページ》 

モンゴル人日本留学百周年記念シンポジュム

 投稿者:MUSS  投稿日:2006年10月18日(水)00時34分0秒
        モンゴル人日本留学百周年記念シンポジュム
   (モンゴル民族文化基金/和光大学総合文化研究所 共催)

 モンゴル人日本留学百周年のお祝いに、モンゴル学術交流会が第13回を迎えることになりました。皆様のご来場を心よりお待ちしております。


   時期:2006年12月2日(土)
   会場:和光大学J棟401号教室

  第一部 研究発表(13:10時〜14:30時)
     (各発表者報告25分、質疑応答10分程度)

1.トクタホ(首都大学東京大学院博士課程)
     「少数民族留学生の民族的アイデンティティの形成と教育に関する一考察
          ―中国国籍モンゴル人留学生の調査を中心として―」
2.ゴイハン(お茶の水女子大学大学院博士課程)
      「内モンゴル民族学校における英語教育の実施現状及び学習者達による言語意識      調査の分析」
司会:エルデニバートル(大正大学・東京外国語大学 非常勤講師)

         休憩(14:30時 〜14:45時)

  第二部 シンポジウム モンゴル人の日本留学百周年 (14:45時〜17:20時)
           (各報告者発表40分、質疑応答10程度)

1.横田素子(中日文化研究所・アジア民族造形文化研究所教授)
      「1906年、モンゴル族学生の日本留学」
2.内田孝(大阪外国語大学・滋賀県立大学 非常勤講師)
       「日本留学期のサイチンガーの翻訳活動」
3.バイカル(新潟産業大学 助教授)
     「中国籍モンゴル人の日本留学事情 ―20世紀後半を中心として―」
司会:ブレンサイン(滋賀県立大学 助教授)

    第三部  特別講演(17:20時 〜17:50時)

佐治俊彦(和光大学表現学部教授)
      講演テーマ: 「内モンゴル・リグデン文学との出会い」

*モンゴル民族文化基金活動報告(17:50時〜18:00時)

  第四部 文化交流会 (18:00時〜20:00時)

 歌・踊り・モンゴル料理などを交えて交流をします。

 会費:学生500円、社会人1000円
 交通:小田急線 鶴川駅徒歩15分
 


満州国の現状

 投稿者:Piao  投稿日:2006年 9月28日(木)17時59分57秒
  こちらのサイトにニュースが満載されてます。
ご参考までに。^^

http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/

 

満州国国歌

 投稿者:前田均  投稿日:2006年 7月 8日(土)21時13分38秒
  私は1月26日(月)13時44分53秒の投稿に引用されている「45. 旧満洲国国歌の作曲者は山田耕作か?」の著者の前田です。学校の紀要に出した論文が引用されていてうれしいです。
私は森脇氏の著書が間違いだと信じ、拙稿を書きました。皆さん、どう森脇氏と私をどう評価んさいますか? そして森脇氏の「指導教員」だった内海愛子氏についての評価もお聞かせいただければ幸いです。
 

川村湊さん>野次馬の視線さま

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2005年 7月18日(月)16時57分59秒
  レス、大変遅くなり申し訳ありません。

>大昔に彼が学生だった頃には、大田竜周辺にいた方であると、本人のいる場で他の人が指摘しているのを聞いたことがあります。

なるほど〜。彼は大田竜周辺にいた方なのですね。プロ軍時代あたりでしょうか、それともアイヌのころでしょうか。

>民族について固定的に見てしまうのは、大昔の記憶がどこか片隅に残っているからかも知れません。

確かにそういう影響はあるかもしれませんね。また、時代の雰囲気もそうだったのでしょう。昔の大田竜の議論に特徴的なのは一種の「原理主義」というか、マルクス・レーニン主義の基本的な枠組みはそのままで、「変質した労働者階級」の代わりに「《真の》プロレタリアート」=「もっとも抑圧された人民・民族」を革命主体に当てはめるというやり方で、しかもそれを歴史主義的に展開したために、彼のマルクス・レーニン主義的運動論との乖離も大きくなっておかしくなっていったのではないでしょうか。彼に限らず新左翼全体の「被抑圧民族絶対化」は、被抑圧民族に着目した点に間違いがあるというより、その「民族」観が貧弱なために既成のマルクス・レーニン主義的枠組みを超えることができず、いわばマルクス・レーニン主義の破綻を補完した、というところに問題があったのでは、と私は思っています。

また何かコメントがあったらどんどん書き込んでくださいね。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

川村湊さん

 投稿者:野次馬の視線  投稿日:2005年 5月 2日(月)16時08分31秒
  はじめまして。一年前の議論だったのですね。川村湊さんの熱心な読者ではないですが、酒場での顔見知りです。大昔に彼が学生だった頃には、大田竜周辺にいた方であると、本人のいる場で他の人が指摘しているのを聞いたことがあります。ご本人も特に否定はしていませんでした。民族について固定的に見てしまうのは、大昔の記憶がどこか片隅に残っているからかも知れません。  

新年明けましておめでとうございます

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2005年 1月 1日(土)00時08分38秒
  正月休み中に「間島問題の回顧」の残りの部分を打ち込む予定です。  
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

わたしはここ、知ってましたよ(^^)>臨夏さま

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2004年12月17日(金)01時11分29秒
  >下に、川村湊さんのお名前も見えていたりとか、萌えますね〜、、

ポスト・モダン系の方でしたよね、たぶん。
例の「敗戦後史」論争でもご発言だったかと。
存じておりますのはその程度で(^^)ヾ
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

どうも〜>臨夏さま

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年12月12日(日)21時17分18秒
  >あ!、、ここは知りませんでした〜!

いや、すっかり過疎化していたんですが、ちょっと再活性化させてみようと思って。

>落ち着いたらまた来ます(^^

ええ、どんどん面白いことを書きましょう(笑)。そのうち「虹トロ」研究になったりして。。(笑)
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

はじめまして〜!(^^)

 投稿者:臨夏  投稿日:2004年12月12日(日)18時55分53秒
  あ!、、ここは知りませんでした〜!
「満洲国の民族」とは、ツボですね〜、
下に、川村湊さんのお名前も見えていたりとか、萌えますね〜、、
落ち着いたらまた来ます(^^
 

お知らせ

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年12月12日(日)04時53分25秒
  この掲示板の仕様を若干変更しました。また、下の「ホームページへ」をクリックすると「私の暫定的ホームページ(統合版)」へ行くことができます。

『間島問題の回顧』についてはまた後日継続して載せることにします。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

『間島問題の回顧』(『白頭山定界碑』篠田治策著・附録)4:引用注

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 8月19日(木)00時18分3秒
   第四段落の初め、外務省政務局長の言葉が伏字となっていますが、この原文をもともとこの文章が掲載されていた別のパンフレットから見つけ出しました。『間島問題の回顧』(満蒙パンフレット第14号、大連社団法人中日文化協会発行、昭和五年十二月十五日)によると、伏字となった部分は「…一行が幸に六ヶ月間間島に転がり込んで居れば必ず物にすると語つたことがある。此言葉は如何にも侵略主義のようにも聞へるが、…」です。この言葉はもちろん侵略主義の発露に他ならないわけですが、むしろ私として興味が出てくるのは、「昭和5年」に伏字でないものが、なぜ『白頭山定界碑』の発行された「昭和13年」(発行:楽浪書院、東京)には伏字にならざるを得なかったのか、です。歴史を振り返ってみると、この「昭和5年」から「昭和13年」の間に「満州事変」(1931年)・「北支事変」(1937年)がありました。これらの事件もまた事実上“一行が幸に六ヶ月間転がり込んで居れば必ず物にする”と同じような性質のものだったからこそ、これらの事件を経た後では、露骨に侵略主義を想起させるようなこの一文は著者が自主的にか、もしくは検閲側が削除したのだと判断できるのではないでしょうか。あとは発行地の「温度差」も関連しているのかもしれません。かたや満州事変直前の在満日本人の満洲に対する日本の行動への期待が渦巻いた雰囲気と、戦争開始後の日本内地という「温度差」が。  
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

『間島問題の回顧』(『白頭山定界碑』篠田治策著・附録)4−2

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 8月19日(木)00時42分38秒
   然るに李朝の開闢以来約二百年を経て、重大事件が起つた。即ち此等の女真族の中より努爾哈斉と称する一大英雄が出現して、女真諸部落を次第に統一し、満洲国を造つたことである。満洲国は後に国号を大清と改めたが、その太祖となつた努爾哈斉は赫図阿拉今の興京より興り、文禄役に宣祖が義州に出奔した時、彼は使を遣はし、救援を申込みしも、朝鮮側では後患を慮りて之を拒絶したこともある。満洲の勃興時代に最も苦痛を感じたるは、人口稀少なる此地方に於て、人馬の充実問題であつた。故に努爾哈斉は屡々各地を征伐して人民を鹵獲し、之を満洲地方に移した。白頭山の北方渥集部より今の間島及び沿海州地方の瓦爾哈・庫爾哈を征伐したのも此時である。此征伐は人狩りが目的である故、土地は捨てて顧みなかつたのであり、之が為めに間島地方が無人の地となつたと言はれて居る。其後満洲は益々強盛となり、遂に明の辺境を侵し、又明の大軍を撫順附近に迎撃して殆んど之を全滅した。満洲は益々勢ひを得て志を中原に得んとするに至つたが、時に明の将毛文龍が平安道宜川沖の椴島に拠り、朝鮮内より満洲の背後を脅かすのみならず、宗主国の為めに朝鮮も之を援助するを以て、満洲にては先づ以て朝鮮を征伐して、後顧の患を除くの必要が起つた。茲に於て満洲は口実を設け、三万の兵を以て朝鮮に侵入した。朝鮮兵は所在風を望んで逃竄し、満洲兵は無人の野を行くが如く、長駆して将に京城に入らんとした。朝鮮王は江華島に逃れ、使を遣はして和を講ぜしめ、今より以後兄弟の国になることとし、誓文を交換して各自封疆を守りて互に犯さざることとした。然るに朝鮮にては従来藩胡として蔑視した野人等に対して、兄として之を敬せねばならぬので大いに屈辱を感じた。満洲に対して復讐戦を試みざる可からずとて、自国の力を計らず大言壮語する者多く、遂に朝鮮王は八道に令を下して満洲征討の計画をなした。一方満洲にては更に一撃を加へて充分に屈服せしめんと欲する時であつたから、好機到れりとなし、太宗は親ら十数万の兵を率ひて朝鮮に侵入した。此時は前戦役より十年後であるが、朝鮮人は徒らに大言壮語するものの、何等武備を講ずること無かりしにより、義州より京城に到るの間、太宗は殆んど抵抗を受くることなく直ちに京城に迫つた。朝鮮王は広州南漢山城に逃れたが、満洲軍の包囲を受くること四十余日にして満洲軍に降伏した。此時より以後朝鮮は満洲の属国となり、臣と称して其正朔を奉じて日清戦争の時に到つたのである。満洲は既に後顧の顧を絶ち次第に中原に進出したが、両国とも前戦役の和約を重んじ、無人地帯に人民の入るを禁じて近年に至つたのである。偶々此地帯に侵入して問題を起したる事件は、通文館志等に明記せられて居る。
 天聡の和約に両国共に封疆を全ふせんとの語はあるが、何れの地点が境界であつたかは文献の徴すべきものが無い。只仏国人チユアルドの著書「デスクリプシヨン、ド、ラ、シーン」に、豆満江外に於て鹿屯島を包括し、黒山嶺山脈より宝它山に至り、鴨緑江の上流に入る頭道溝より十二道溝に至る諸水と、松花江の西大源諸水との分水嶺たる長白山と、其支脈より混江本流の稍西方を経て、大小鼓河の水源より鴨緑江と鳳凰城の中間に至る線上に点線を画し、之が説明として、「鳳凰城の東方に朝鮮国の西方の国境がある、蓋し満洲は支那を攻むるに先ちて朝鮮と戦ひ、之を征服したが、其際長柵と朝鮮との国境間に無人の地帯を置くことを議定した。此国境は図上点線を以て表せるもの之である」、と記載してある。此記事は康熙四十八年に清の聖祖の命を奉じ、此地方を調査した仏人レージの備忘録より引用したもので、信憑するに足るものである。要するに当時の国境なる概念は殆んど漠然たるものにて、明確に之を指示する能はざりしも、此記事によるも朝鮮の東北国境は、豆満江以北の黒山嶺山脈より鴨緑江の水系を含む山脈を包括して鳳凰城の南に在り、更に其北に無人地帯があつたことを推定することが出来るのである。
 

『間島問題の回顧』(『白頭山定界碑』篠田治策著・附録)4−1

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 8月18日(水)00時02分21秒
   (四)
 東京出発前に、外務省政務局長山座円次郎氏は、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。此言葉は○○○○○○○○○○○○○○○○○、間島は韓国の領土なりとの韓人の多年の主張を、外交手段により実現せしめ得ることと信じて居つたのである。間島問題に関する私の研究によれば、其結論は、
 「間島は清韓両国の何れにも属せざる、自然に形成せられたる無人の中立地帯であつた」
のであるが、此問題は鴨緑江対岸をも含む歴史上の間曠地帯であるが故に、既に鴨緑江対岸を清国の領土としたる以上は、豆満江対岸は之を韓国の領土とするを公平なる処置なりと信ずるのである。勿論韓国の主張は此理由に基くに非ず、白頭山の定界碑を根拠とし、是より発源する土門江以南の間島を自国領土と主張したのであつた。私の右の結論は公平なる学術上の論拠より出たものであるが、公人として間島に行動せし際は、二十数年来韓人の主張し来たる韓国領土説を支持して、豆満江以北を全然清国領土なりと主張する清国に対抗し来つたことは、国家の為めに誠に止むを得ざるのであつた。是に於て少しく間島問題の来歴を略説する必要がある。
 私は先づ、清韓両国間に間島問題の発生したる以前の歴史から一瞥せねばならぬ。間島地方が最も多く朝鮮と関係を有するに至りしは高麗朝の頃からである。高麗朝時代には此地方は女真部落であつたが、女真の盛んなる時には永興湾の附近迄出て来て居つたのみならず、朝鮮の東海岸より南下して我国まで侵入したことがある。即ち我国の歴史で刀夷の入寇として有名なる事件が其一例である。即ち後一条天皇の寛仁三年に壱岐対馬を掠奪して筑前に上陸し、志麻、早良、怡土の三郡及び能古島を侵し、土地の住民四百六十人を殺し、千二百八十四人を捕虜として去つた。彼等は最も獰猛の賊であつて、老幼者は之を殺し、壮年の男女を掠めて船に連れ帰つたが、船中にても病人や婦女は之を海に投じて殺したのである。此頃の女真の跋扈には高麗朝にても甚だしく悩まされたので、遂に鴨緑江の左岸より半島を横断して、東海岸の永興湾の北の都連浦迄石壘を築きて、女真を防拒したこともあり、其工事に十六年を費したのであるが、現に此石壘の遺跡は平安道の山間部落に存在して居る。又有名なる尹?の女真征伐は此工事より八十四年後であるが、当時尹?は女真族を遠く北方に駆逐し、公険鎮を置き、石碑を先春嶺に立てて帰つた。此公険嶺や先春嶺は間島地方であるらしいが、未だ明確ではない。斯くの如く女真は高麗とは絶へず種々交渉があつたが、高麗の末期に至つて、後に李朝の太祖となつた李成柱は朔方道兵馬使として豆満江方面に在つて、大いに女真の諸部落を招撫し、千戸万戸等の職を其酋長等に授けて内附せしめた。李朝太宗の時に至り、女真部落に動乱ありしにより、慶源附近に在る祖先の陵を咸興に移したこともあり、世宗の時には六鎮を置いて此方面を鎮撫したこともある。其頃の女真を朝鮮にては藩胡と称して懐柔して居つたが、豆満江以南にも雑居して居つたことは、清朝の祖先猛哥帖木児が会寧にて殺されたことを見ても明かである。(続く)
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

『間島問題の回顧』(『白頭山定界碑』篠田治策著・附録)3

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 8月16日(月)23時24分46秒
   (三)
 日露協約も成立した。伊藤統監は、統監府派出所員及び憲兵は八月六日迄に、秘かに会寧に集合して後命を待つべき命令を発した。是に於て憲兵竝に東京及び京城に滞在せる同志は、三々五々人目を避けて期日迄に全員会寧に集合し、秘密に諸般の準備を整へて後命を待つたが、茲に最も困難を感じたるは、間島到着後の庁舎及び宿舎の準備であつた。是に於て天宝山の鉱業を開始せんとせる中和公司の手を経て、鉱山主程光弟を招き、中和公司の鉱業用として六道溝に在る清人家屋を借入るることとした。此家屋は龍井村の南方約十丁を隔て、道路より稍々入り込み手丘陵下に在る稍々大なる家屋であつた。則ち楠野嘱託、山本通訳を派して其家に到り賃借の契約を締結せしめ、取敢へず間島到着時の足溜りとした。
 斯くて会寧に滞在すること十数日、八月十八日夜半十二時に至り、統監府より明十九日を以て直ちに間島に前進すべき電令があつた。同志及び憲兵は徹宵して出発の準備をしたが、乗馬及び運搬用の車両に乏しく甚だしく困難を感じた。会寧守備隊の力を借りて附近の村落より徴発したるも、到底一回に輸送し能はざりしを以て、人員は三班に分れ、荷物は之を数回に分ちて輸送することとした。
 八月十九日斎藤大佐は職員及び憲兵の大部分を率ひ、第一班として会寧を出発したが、此日を以て北京駐剳林公使は清国政府に対し、間島が所属未定の為め、清韓両国間に多年の懸案あるも多数の韓民は馬賊不逞輩の凌虐を蒙りつつあるを以て、取敢へず日本より保護官を派し、少数の憲兵及び警察官を帯同せしめ、不幸なる韓民を保護せしむる旨を通告したのである。而して我一行の最も憂慮したるは、清国辺境守備隊の態度である。彼等が若し辺境守備の任務上、武装せる一行の前進を阻止せば、勢ひ武力の衝突を免れぬ、仮令我等が我任務を説明するも、彼等が上司より何等の通知なきを理由として我言を聴かずんば、我等も亦間島に赴任すべき命令を実行せんが為め、其妨害を排除して前進せねばならぬ。故に我一行は充分なる警戒をなし、砂器洞渡船場に近接したる際、清語に通ずる憲兵下士を、砂器洞清国兵舎に派遣し、彼等の動勢を窺ひ告ぐるに我目的を以てせしめた。守備隊長の胡安邦は茫然として為す所を知らず、只管事突然なりしが故に、迎接の礼を欠くことを陳謝するのであつた。辺境守備隊長の態度が斯くの如くなるを以て、一行は大に意を安んじ、此日は兀艮哈嶺中一小部落の三屯に宿営し、歩哨を立てて夜間の通行を禁じた。然るに右の守備隊長も、後に不安を感じたるや、局子街の上司に報告すべく、馬を馳せて此地を通過せんとしたが、我歩哨は前進を許さず取敢へず此地に抑留した。翌二日早朝一行は三屯を出発して兀艮哈嶺を踰へた。此山は清人は火狐狸溝嶺と呼び、白頭山より東南走する大山脈である。斎藤大佐は随員及び憲兵一同を山頂の小高き処に集め、前面に展開せる間島の平野を指示して一場の訓示をなした。其要旨は、間島の地勢、面積、住民の状態より、間島問題の来歴を説き、我等は今より此前人未到の地に入りて、重要なる任務に就き、相共に国家の為めに奮勉努力せんと曰ふにあつた。凛然たる其態度と荘重なる其語気とは、牢乎たる決心を示し、一同之が為めに勇気百倍宛もナポレオンがアルプスの険を踰へ、伊太利の平野を臨みし時の慨があつた。進んで太拉子を過ぎ、同地に駐屯せる分防長張兆麒を訪ひ、来往の目的を告げたが、彼は著しく恐怖の色ありしも、上司より何等の通報なきにより、我一行に対する態度を定むる能はざる旨を語つた。此地の守備隊長の態度も亦斯の如くなりしを以て、一行は益々意を安んじて、此日無事六道溝の予定宿舎に到達するを得た。而して翌日及び翌々日に第二班第三班も事無く到着したが、其宿舎は到底全員を収容し能はざるにより、遂に議を変じて龍井村に移転することとした。龍井村は天主教の会堂があつて聖教村とも呼ばれた程で、従来牧師の保護によりて住民は平和なる生活を営みつつあつた。移転の始めに、村民の重なる一行を途に遮つて入村を拒んだが、能く一行の目的を説明したるに、後には快く一行を迎へ、喜んで宿舎を提供した。是に於て各戸に就き、一間又は二間を借用し一行は村内に分宿したが、其矮小なるは勿論、家屋内の一部には牛馬をも飼養し、其不潔なることは殆んど言語に絶した。而して村内に新築中の一小家屋ありしを以て、之を購入して直ちに統監府派出所を開庁したが、之れ実に明治四十年八月二十三日である。
 

『間島問題の回顧』(『白頭山定界碑』篠田治策著・附録)2

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 8月15日(日)12時16分4秒
   (二)
 男子の一諾千釣よりも重しだ。私は微力を尽して間島問題に従事せんことを約して以来、東奔西走先づ職員の編成に従事した。大体の人選を終りて更に事務の分担を定め、私は総務課長として事務を統一し、兼ねて間島問題を歴史的法律的に研究し、又清国官憲と折衝することとなつた。其他文学士鈴木信太郎君は専ら歴史的研究に、小川琢治君(現理学博士京大名誉教授)は地質鉱山の調査に、農学士八田吉平君は産業方面の調査及び指導に、楠野俊成君は一般行政事務に、韓国内部書記官崔基南君、同警視金海龍君は韓民の慰撫懐柔方面に従事することとし、其他通訳官以下多数の職員を決定した。而して別に境野憲兵少佐は憲兵の一隊及び韓国警察官を率ひて、韓人の直接保護及び一般警察に従事することとなつた。此等の編成は事の清国に漏洩せんことを慮り、秘かに東京に於て之を行つたが、統監及び軍司令官と打合の為め、斎藤中佐と我等二三人は先発して、明治四十年三月京城に入つた。
 間島赴任の時機は、北京駐剳の帝国公使より清国政府に通牒を発する日を以てすることに決定したが、時に我政府は露国政府と満蒙に関する協約の協議進行中であつた。浦塩に程遠からざる間島方面に、我参謀官が憲兵を率ひて突如として進出せんか、必ず露国政府を驚かし、協約の成立に支障あるは明かなるを以て、該協約の成立を待つて、一行は間島に赴任することにした。京城に先着したる我等は、為すこともなく放浪して居つたが、秘密は最も良く保たれ、此計画を知る者は要路二三の人々の外には他に無かつた。是に於て一策を案じ、むしろ此待命の期間を利用して、変装して間島に入り、予め彼地の実情を探り、諸般の計画に資するに決し、斎藤中佐と私は巧みに商人に変装して間島に向つた。
 四月七日京城を発し、釜山より陸軍御用船に便乗し、海上六日間を費して清津に上陸し、更にトロツコに乗り、二日を経て会寧に到着した。是より先、露軍が未だ間島を撤退せざる時より、我陸軍より平山主計を変装せしめて間島に派遣し、露軍の動静を探り且つ諸般の調査を為さしめてあつた。平山主計は軍の命令により、会寧に出て来て、我等を迎へ、案内役となつた。外に韓人通訳一名を加へて一行四人となり、四月十八日豆満江を渡つて間島に入り、兀艮哈嶺を越へ、東盛湧、局子街、銅仏寺、老頭溝より天宝山に到り、転じて頭道溝に出て、東古城子龍井村を経て再び東盛湧に出て、門岩洞より四月二十九日鍾城に帰つた。
 此変装旅行は間島の状況を明かにし、今後計画を立つるに最も有益であつた。即ち此旅行によりて、従来漠然たりし間島の境界も略々假定することを得、不日公然進入し来つて韓民を保護すべき区域及び庁舎設置の地点を予定し得たのみならず、韓人分布の状況、地勢、交通、住民の生活状態並に清国政府施設の実情を知るを得た。京城に帰つて視察したる状況を伊藤統監に復命し、同時に将来の方針に関し、左の要旨の意見を提出した。

 (一)韓民保護に従事する官衙の名称を統監府派出所とし、其位置は略々間島の中心たる南端の西部にして馬鞍山の南方平地の内に求むること。
 (二)統監府派出所は交通不便にして未開僻遠の地に置かれ、特殊の任務を有するが故に、成るべく其権限を広くし、事情に適合して臨機裁量の余地あらしむる為めに、当分の内、次の権限を付与するを適当なりと信ずること。(イ)韓国政府より、間島假定域内の韓国人民を統括する一切の権を委任せしむること。(ロ)此区域内に在る日本臣民に対しては理事庁の権能と同一の権能を有せしむること。(ハ)緊急の事変に際し、止むを得ざる場合には最近の帝国守備隊に出兵を請求し得ること。
 (三)当分清国政府現在の施設を争論せず、成る可く懐柔の方針を採り、機に臨み変に応じて我地歩を進むるの方針に出づること。
 (四)間島は韓国の領土たるべきことを前提として事に当ること。
 (五)間島の開発に関しては、(イ)清津を開港し、敦賀若くは舞鶴との直接航路の開始を奨励すること。(ロ)日本内地との連絡法を簡易にし、日本商品を輸入し、穀物及び鉱物を輸出すること。(ハ)間島内に軽便鉄道を架設し、会寧との交通を便にすること。(ニ)清津会寧間の軽便鉄道を逐次に改築すること。(ホ)統監府派出所と会寧との間に電線を架設すること。(ヘ)前記の統監府派出所設置の地点に於て市街建設の準備をなすこと。

 以上の意見は大体に於て伊藤統監の認容するところとなり、是に因つて今後の計画を立て、更に韓国政府の記録に基き、間島問題の歴史的研究に従事し、日露協約成立の時期を待つた。
 

『間島問題の回顧』(『白頭山定界碑』篠田治策著・附録)

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 8月15日(日)12時17分41秒
   (一)
 回顧すれば明治三十九年の暮れの頃であつた。勇姿颯爽たる一軍人が、馬上裕かに東京青山の寓居を訪ねて来た。取次ぎの者に私の在否を尋ねて、会へば判るから、軍人が訪ねて来たことを取次いで呉れと言ふのである。姓名を秘すのは何者ぞ、私は自ら玄関に出て見ると、韓国駐剳軍司令部附の斎藤中佐であつた。私が旅順攻囲軍に在つた頃、中佐は同軍の参謀であり、旅順陥落は旅順の軍政官となり、共に共に旅順要塞及び租借地の整理に従事した知己である。直ちに座に請じて久闊を謝し、満洲の近状など閑談すること暫時にして、中佐は徐ろに一大事の協議したき件あり、願くは家人を遠ざけ、諾否何れにしても当分の間は極秘を守られたき旨を述べて、間島問題に言及した。
 間島問題が清韓両国間に数十年来の懸案であり、殊に其地方には千古の森林欝蒼として人跡未到の処あり、又鉱物に富み、沃野遠く連りて開墾に適し、真に北韓の宝庫なることは、当時支那より帰つた友人よりも聞いて居たが、中佐の話は、韓国より外交権を委任せられた日本政府が、今回多年の懸案を解決する為めに、取敢へず間島に我官憲を派遣して、表面は清国官憲の横暴と馬賊不逞輩の凌虐とより、多数の在住韓民を保護し、裏面には間島問題を韓国の為めに有利に解決すべく試みるのである。而して差当り自分がその主任となり、帯同すべき職員の編成を命ぜられたが、其人員中に国際法に通ずる者を要し、外務省にも、統監府にも交渉したが適当の人物を得ざるにより、私に国家の為めに此大問題の解決に従事すべく同行を求むると同時に、他の職員の物色に付き助力を求むと曰ふのであつた。
 私は大学を出でて東京で弁護士の事務に従事して居つた。日露戦役の際、旅順攻囲軍の国際法顧問として従軍したが、自己の業務を擲ち決然起つて従軍したる動機は、全く「国家の為め」にと謂ふのであつた。一高の校風に陶冶せられて、「国家の為め」には何物をも犠牲に供すべき信念を有せし私は、夙に露国に対しては一矢酬ひざる可からずとの覚悟を有して居つた。三国干渉以来、旅順大連を租借し、満洲全部を占領し、韓国を篭絡し、傍若無人の態度を以て、我国を圧迫し来れる露国に対しては、最早一刻の猶予も出来ぬ。国命を賭しても、挙国一致して之と戦ふの一途あるのみとなつた。軍籍に在らざる我等と雖も、何事たりとも微力の限りを尽して、「国家の為め」に貢献せねばならぬのであり、一身上の利害損失を考慮するの余地は無かつたのである。然れども自己の業務を放棄して二個年以上従軍したことは、私的生活には慥かに大打撃であつた。斎藤中佐の来訪した時は再び弁護士の業務に従事し、殊に或る重要なる訴訟事件を引受けて居つた時であり、私の意は容易に動かなかった。其後二三回の交渉を重ね、中佐は頻りに此問題の解決が、一千数百方里に亘る領土の得喪に関し、且つ帝国の威信と韓国国防とに重大なる意義あることを力説し、「国家の為め」に一臂の労を惜まざらんことを切に希望した。「国家の為め」に?私の心は再び動き初めた。挙国一致の際とは事情を異にすと雖も、亦何人かが之に当たらざるを得ぬ。内外に其人を得ずしてはるばる、朝鮮より来つて助力を求むる中佐の知遇にも感ぜざるを得なかつた。是に於て快諾一番、一身上の利害を顧みず、微力を捧げて間島韓民の保護と間島問題解決に従事することとなつたのである。
 斎藤中佐は其後まもなく大佐となつたが、多年支那に在つて支那語を能くし、陸軍内部に於ける屈指の支那通であり、且つ深謀遠慮眼明敏果断の好士官であつた。日露戦役中は乃木軍の参謀として活動し、更に旅順、安東の軍政官となり、支那公使館附武官、天津駐剳軍司令官等を経て第十一師団長となり、西伯利亜出兵の時、不幸にも浦塩にて病没したる人である。政府が一介の武辨を起して、国際問題の衝に当らしむるが如きは、稍々奇異の感あるも、当時間島の状況は、馬賊と不逞鮮人の横行するあり、不規律にして馬賊と撰むこと無き清兵の暴動するあり、交通最も不便にして通信機関無く、危険を冒し困苦欠乏に堪へ能く職員を統御し、其の任務を遂行せしむるには、有為の軍人を選抜して其任に当らしむるを最も必要としたのである。故に伊藤統監は長谷川軍司令官と協議し、夙に其材幹を認めたる斎藤中佐を政府に推薦し統監府御用掛とし、文官の資格を以て間島に派遣したのであつた。
 

(無題)

 投稿者:enebisi  投稿日:2004年 8月 7日(土)18時33分50秒
  <img src="http://www.teacup.com/common/img/ja/menu_paso.gif">  

>書誌情報

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 7月30日(金)01時32分52秒
  エネビシ ノフル バイラルラー。
グスル エネ ノミ ソニルハルテ グチ ボッツン ボルボチ イフ ウンテ ビショー?w

オド バス ビー アルヒ オーガード ヤク ソクッツン ビレ。エネビシ ノフル チャク テ ボル ダヒャート ハマタル アルヒ オーヤーw

(キリル ウスガール ビチフニーグ ヤリシクテ トル ビー ヤポン ウスガール ビチスン ビレw)
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

書誌情報

 投稿者:enebisi  投稿日:2004年 7月26日(月)18時46分26秒
  煎本 孝編著
東北アジア諸民族の文化動態
ISBN4-8329-6241-8/2002.3.25/A5判 ・並製 ・580頁 ・定価9975円(本体9500円+税5%)



--------------------------------------------------------------------------------

日本・ロシア・中国・モンゴルを含む東北アジア諸民族の狩猟や遊牧を中心とした伝統文化は,政治的・経済的な制約のもとにさまざまな変化を受けてきた. 本書は,東北アジア諸民族の文化の動態を言語と文化の両面から明らかにする.


http://www.hup.gr.jp/details/ISBN4-8329-6241-8.htm

 

RE:北海道に託す新五族共和の夢

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 3月30日(火)00時04分32秒
  ご紹介ありがとうございました。

読ませていただきましたが、この手の話でいつも疑問に思うのは「じゃあ、土着の民族の存在はどうなるの?」ということですね。「アイヌ」のいない北海道、「ナナイ」「ニヴヒ」のいないアムール、「ウデヘ」のいない沿海州、「オロチョン」のいない興安嶺、みな胡散臭いと思いませんか?「経済効率」だけの発想は否応なく「植民地主義」的観念を内包する、といった所ですか(笑)。
 

RE4:「満洲国」のモンゴル地域の政策をめぐって/再論

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 3月29日(月)23時31分59秒
  >あ、これですが、私の記入上の問題で「社会構造だけに」とあるのは「社会構造であるだけに」という意味で使おうと思っていました。申し訳ありません。

了解しました。

>さて、労働力移動の問題は興味があります。日本の右派の人たちが、満洲国礼賛をする際によくいわれるのは、「満洲国がひどい国ならば、なんであれだけの人口流入がおこったのだ。満洲国が素晴らしい国家建設をしていたからではないか」という言説を流布していて、それこそ川村湊の「老郭」にまつわる言説との温度差を感じざるをえませんが、実態はどうだったのでしょうかね。。。

まあ、話はごく単純で近代産業は大量の労働力を必要としますから、労働人口を国内で賄えない場合、人口流入が起きるのは当たり前なのではないでしょうか。「素晴らしい国家建設」とはあまり関係がないでしょう(笑)。たとえば近年日本にたくさんの「外国人労働者」がやってきてますが、そのことと日本が外国人に「住み好い国」であるかどうかはまったく無関係なことと同様で。右派の方々はそういう「満洲国」の褒め方をするのならば、「外国人による治安の悪化」を嘆く前に「犯罪すらもし易い国」「スパイ天国」としての「日本」を賞賛すれば良いのではないですか?(笑)

ちなみにロシアや日本、それから列強が中国に持ち込んだ「資本制」と「近代産業」が漢族の満洲への労働力移動の激化をもたらし、固有の地域としての「満洲」を消滅させた(小峰和夫)とも言えるでしょう。
 

RE5:川村湊のテキスト(1)−3

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 3月29日(月)23時04分42秒
  >このご指摘は大変示唆的だと思います。川村が朝鮮に詳しいという事情はもちろんあると思いますが、内モンゴルも同じ時期に近代化の過程を進んでいたわけで、そこにどうしても日本のファクターが介在してきますよね。そこで、現地の近代化に協力/非協力した日本人と裏の意図、現地側の思惑と成功/失敗などが全体的に解明されてくると、面白いとおもいます。

そうですね。現段階では広川さんの例の論文を除いて研究というものも見当たらないようですね。この場合、個々人の残した回想録は非常に重要になるかと思います。「満洲国」モンゴル地域の近代化が「植民地近代」であれ、当該地域の社会構造の変容をもたらしたわけですから、そのことが「満洲国」消滅以降のモンゴル地域の社会運動のありように影響を及ぼさないわけがありません。私の「感触」としては、45年以降の東部内モンゴル地域における「内蒙古人民革命党」の活動が、1931年以前の秘密結社めいた活動と違って急激に大衆化したのも、このことと関係があるのではないでしょうか。ただ「解放」という状況がもたらしたものとは言えないような気がするのです。もちろん、その活動は数年で終止符を打たれてしまうのですが。ことはモンゴル人だけではなく漢族にとっても似たような構造を持っていると思われます。そういう意味で45年以降の東北解放戦争の内実が「満洲国」との関連でも検証される必要があるでしょう。また、東北解放戦争の民族関係方面からのアプローチの一例としては46年以降共産党が主要都市・地域を国民党に奪われた際、延辺地域に拠点を置いていたことがありますが、このとき延辺の朝鮮人が共産党を強力にバックアップしたわけですが、その原因も「満洲国」との関連で見ていく必要もあると考えています。川村も朝鮮に詳しいのだし、この辺もフォローして論考を進めていたら奥行きの深いものができたのではないか、と思うのですが、まあ、彼の場合「本国中心主義」みたいなものがあってそういうアプローチはできなかったみたいですね。それが日本人については「満洲国」消滅後も引揚げずに東北地方に万単位で残留していた人々に彼の視野が及ばない理由にもなっているのかと。

話は少し変わりますが、日本人で在日韓国・朝鮮人のことを熱心にやっている人は「本国」のことをあまり重視しないという傾向が、逆に韓国に入れ込んでいる人は在日のことを視野に入れないという傾向がかつてはあったかと思うのですが(今はどうなんでしょうか)、客観的には在日が二世・三世の時代になって「本国」と感性的には「切れてしまっている」状態を映し出しているものなんでしょうけど、前者が「日本」というコンテクストにのみこだわっているとすれば、後者は<民族>という枠をはみ出すものに理解が及ばないということで、私は「なんだかどちらもなあ」という気がするのです。両者に共通するのは<民族>というものを<国家>という枠の中だけで考えている、その考え方ですね。これは日本人だけのものではないのでしょう。先ほどの例でいえば朝鮮半島「本国」人自身もまたこうした考え方に囚われているような気がします。偏向者さんが「国家意識」のことを引き合いに出されましたが、「五族」(プラスその他の民族)を取り上げようとして「五族」を取り上げきれない川村の「アポリア」もこの辺に原因があるのではないでしょうか。「満洲国」を構成する民族はそのすべてが「自己の国家」があるないにかかわらず「越境民族」だったのですから。
 

RE5:川村湊のテキスト(1)−2/続き

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 3月25日(木)23時54分50秒
  もちろん穿った見方をすれば、テーマが微妙であるだけに日本の「進歩的知識人」の大枠を維持しつつ、いろいろな「正史」に沿わない「新事実」を小出しにするという形で中国からも日本のアカデミズムからも叩かれる事のない安全圏に立っている、という風に見ることもできますが(笑)。モンゴルなんかに関わりだせば中方から「民族分裂主義」のシンパと見られてしまうかもしれないし(笑)。  

RE5:川村湊のテキスト(1)−2

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 3月25日(木)23時53分18秒
  >彼は当時の日本人が「五族協和」といいながら、「五族」に対する対等な距離関係をもっていない、相手を理解しないで支配的な視点からみているということを強調しています。そうであるならば、いかに「五族」の立場からものが見れるかというのが、本当はこの本の主題にならなければならないと思うんです。しかし、孫文の「五族」の中身を間違えているのみか、よく考えてみれば本文中では「満人」と「漢人」をまったく混同させており、しかも「モンゴル人」にはまったく言及しないという愚を犯してしまっているわけです。五族の紹介でわずかに出ているところも、「蒙」と漢字表記していっこうにはばからない。この本を、中国籍のモンゴル人留学生がみたらどう思うだろうか。まったく偏っている、私たちが無視されていると思うのではないでしょうか?そういう意味ではこの本は大変罪つくりであろうかと思います。

>ではどうして、こうなってしまうのか?ここからは私の憶測にすぎないけれども、彼は侵略者日本VS被侵略者中国という構図から、実は大して逃れていないのではないかと思うわけです。白系ロシアや朝鮮を入れながら、モンゴルと満洲を無視されるという構図はどうも国家意識が無意識のうちに入ってきている気がしてなりません。蘇丹さんは、川村が民族を可変的に見ていないことに意義を呈されているけれども、私は逆に国家制度に引きずられ、恣意的にまとめられた民族観をこそ問題にしたいと思います。

二つの問題があろうかと思います。まず最初は、偏向者さんの言われている“国家制度に引きずられ、恣意的にまとめられた民族観”という問題、そしてそれが作り出されている背景ですね。

まず、川村湊の技術上の問題がありますね。彼は日本語ができ、朝鮮語もある程度できるが、漢語はできないし、それ以外の民族語もできない。とすると、おのずから視野は限定されてしまうでしょう。漢人文学についての部分が精彩を欠くのもそれが大きいのではないか、という気がします。まして漢語で発表された各民族の文学、ないしはモンゴル語で発表されたモンゴル人の文学にはそれが日本語訳されていない限り根本的にアクセスできない、ということかと思います。

次に、「満人」と「漢人」の混同ですが、これは実は「満洲国」時代からのものなんですね。つまり、日本には漢化した満洲人と漢人の区別がつかなかったばかりか、「満洲国」時代は漢人の民族的特性を関内と切り離すためにあえて「支那人」を「満人」と呼び、「支那語」を「満語」と呼んだわけです。意識的にも無意識的にも「満洲人」と「漢人」の区別はなかったということでしょう。

そして“白系ロシアや朝鮮を入れながら、モンゴルと満洲を無視されるという構図はどうも国家意識が無意識のうちに入ってきている”という点ですが、おっしゃるとおり国家意識が無意識に入っているのを感じると同時に、日本語になっている文芸資料そのものが、当時も今もそういうまなざしを持っていることも感じざるをえないのです。つまり「未開民族」にはまともな文芸のひとつもありはしないだろう、というような。彼はそれこそ《無意識的》にそこを踏襲してしまったのでしょう。この場合は「文明意識」でしょうか。

そう考えると、“侵略者日本VS被侵略者中国という構図から、実は大して逃れていないのではないか”という点も、おのずと明らかになってくるだろうと思います。彼は極力当時の文芸資料から拾ってきているわけですけれども、その資料ですら「日満一体」という当時の大目的から外れたことは書けず、そこで追求されたことは「日満」つまり日本と「満洲国」の多数民族であった漢族との融和であったわけですし、戦後も資料の紹介は(歴史資料も含めて)日本の「侵略史」と中国の「正史」の系列に沿ったものしか紹介されてこなかったのだと思われます。そのような日本の戦前/戦後を貫いてきた「無意識」の中から、彼もまた自由ではない、ということなのではないでしょうか。

一番深刻なことはそのような中国側の「正史」が、日本人の民族意識と一種のパラレルな関係にあるというか、日本人の民族意識を図らずも補完してしまっているということでしょう。もし「満洲国」の日本人移民が引揚げずにそのまま現地に留まったとしたら、日本は大量の「海外同胞」を抱えることになり、日本は戦後も他者の問題としてではなく自民族の問題として「満洲国」のことを常に考えなくてはならなくなるでしょうし、中国側も少数民族たる「日本人」を抱えてただ単に「侵略者日本」を追い出した、ということでは済まなくなるはずです。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

RE5:川村湊のテキスト(1)−1

 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日:2004年 3月25日(木)22時17分22秒
  まず、偏向者さんがおっしゃられた二つの問題のうち、後者のほうから検討していきましょう。

>権益確保がまずありき、で、その後からそれを正当化するための理屈がついてきたというのが実際でしょう?でなければ「満蒙は日本の生命線」なんてことばが生まれるはずがない。でも実際に開拓や戦争に借り出されていった現場の人間には、純粋に理念だけを信じて進んでいった人たちもいたっていうことなんだと思いますね。

そうなんですね。川村が話の導入としてああ言う風に書き出していることは文章のテクニックとしては理解できなくもないが、逆にいえば“「理念国家」の創設を目指した”、理念だけを信じた人というのは、「満洲国」においては少数派だったのではないか、と。実態としては多くの日本人が理念など気にもせず、植民者顔で過ごしていたのだろう、と思うわけです。そしてその少数者の「理念」も現実の中で打ち破られていく、そういうことを川村は書きたかったのだと思いますが、出だしをこう書いてしまうと、まるで日本総体が「満洲国」を「理念国家」として創ろうとした、と読めてしまわなくもないです。実際には日本にとって「満洲国」は最初から最後まで「兵站地」でしかなかったのではないか。逆に私としては「五族協和・王道楽土」を目指した人たちがそれとは相容れぬ「兵站地」構想とどう辻褄合わせしたのかが気になるくらいです。

>かなり重層的な思惑が入り乱れている感じがしますよね。「虹色のトロツキー」なんて漫画がかつてありましたが、あれなんか読むとまさにトロツキー思想まで受容してしまうような、理想のためには連帯できるのだと思っていた層があったことが分かりますし、モンゴル人青年の生き様などもうまくリンクさせられていて面白く読んだ覚えがあります。

ええ、「売国奴」と単純に割り切ってしまうには重たすぎるものを持っている人もいたのではないか、と思います。もちろん絵に描いたような「売国奴」然とした人も多かったのでしょうけど(笑)。「近代化」のために帝国の支配を受け入れるということ、これは「満洲国」や植民地朝鮮だけの話ではなく、列強の植民地となった地域で多くの知識人が選んだ道ですし、この行動様式もそれなりの普遍性を持っていると思います。今現在も世界中のあちこちで進行中の事態ではないでしょうか。虹色のトロツキー」については、私はそれほど買っていないんです。モンゴル青年をはじめとする登場人物たちの造型があまりに現代日本人臭すぎてリアリティがないというのが私の読後感でした(笑)。同じ作者のなら日本人を主人公に据えた「王道の狗」のほうが面白かったです。でも話のスケールは「トロツキー」よりは大きくないところがあまり受けなかった理由ですかね?(笑)。
 

北海道に託す新五族共和の夢

 投稿者:偏向者  投稿日:2004年 3月25日(木)17時44分47秒
  萬晩報の「北海道独立論」における理念として出てきているようです。

http://www.yorozubp.com/9901/990110.htm

http://www.yorozubp.com/9803/980308.htm

 

RE3:「満洲国」のモンゴル地域の政策をめぐって/再論

 投稿者:偏向者  投稿日:2004年 3月25日(木)17時42分0秒
  >社会構造の面から見ると土地問題と、あとは労働力移動の問題ですね。「満洲国」は閉鎖されていたわけではなく、山東省などの華北から大量の労働者を受け入れていたわけで、このことがどういう意味を持っていたのかも考慮しなければなりません。東北解放戦争が国共内戦の帰趨を決定したわけですが、その東北解放戦争の内実を民族関係の点から問うことも《後「満洲国」史》としては重要ではないでしょうか。

あ、これですが、私の記入上の問題で「社会構造だけに」とあるのは「社会構造であるだけに」という意味で使おうと思っていました。申し訳ありません。

さて、労働力移動の問題は興味があります。日本の右派の人たちが、満洲国礼賛をする際によくいわれるのは、「満洲国がひどい国ならば、なんであれだけの人口流入がおこったのだ。満洲国が素晴らしい国家建設をしていたからではないか」という言説を流布していて、それこそ川村湊の「老郭」にまつわる言説との温度差を感じざるをえませんが、実態はどうだったのでしょうかね。。。
 

RE4:川村湊のテキスト(1)−3

 投稿者:偏向者  投稿日:2004年 3月25日(木)17時36分6秒
  >そういう意味で、彼の文章の中では日本人に関する部分は「弱い」様な気がするし、同様に漢人の文学者を扱った部分も「弱い」。一番優れているのは在満朝鮮人を取り上げた部分でしょうか。彼の視野には入っていないですが、戦後の朝鮮半島の歴史を左右する人物の中で満洲パルチザンだった「金日成」はもちろんのこと、「朴正煕」もまた満洲国軍の将校だったわけですから、「満洲経験」というものが戦後の朝鮮半島の歴史にいかに大きく作用したかがわかると思います。一体どのような「満洲体験」が戦後の朝鮮に影響を与えたのか、それを踏まえて彼の論を見ると興味深いものがあると思います。これは朝鮮半島のことだけではなく、戦後の内モンゴルも同様ではないでしょうか。

このご指摘は大変示唆的だと思います。川村が朝鮮に詳しいという事情はもちろんあると思いますが、内モンゴルも同じ時期に近代化の過程を進んでいたわけで、そこにどうしても日本のファクターが介在してきますよね。そこで、現地の近代化に協力/非協力した日本人と裏の意図、現地側の思惑と成功/失敗などが全体的に解明されてくると、面白いとおもいます。

>ですから、川村湊風の民族を固定的なものとして考える形ではなく、支配関係は貫徹されていながらも、相互の関係性から成り立っている「民族」という観点から「満洲国」の民族関係を見ていく必要があるのではないでしょうか。とすると、彼が日本人を中心軸に考えているのとは別に、「満洲国」下の諸民族の関係、特に漢−満関係、漢−朝関係、漢−蒙関係、在満露人と他の民族との関係なども見ていかなければならないでしょう。

民族の可変性の側から考えるときには、やはり孫文の「五族共和」との対比は重要でしょうね。そもそも「中華民族」なる概念は孫文のころより現れたという説があるようです。それらを踏まえていくと、たとえば清朝時代のガルダンの乱のときに、内モンゴル諸王公が、ことばを同じくする(というのも語弊がありますが、民族を同じくするといってもこのころ民族という概念がどうであったかという問題があり悩ましいところ)ガルダンではなく、清朝皇帝側につくにいたった経緯あたりまで遡って比較する必要性も出てくるように思います。そこには当然、聯姻制度と満―モの関係性の問題があり、モンゴルという一体性よりも、王朝体制のなかでの秩序関係が優先されるという事態があったことは明らかだろうと思います。

 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

RE4:川村湊のテキスト(1)−2

 投稿者:偏向者  投稿日:2004年 3月25日(木)17時24分49秒
  >そうすると、川村湊の進め方には少し疑問が湧いてくるのですね。彼は「民族」というものを一種の「絶対に他と交わる事の無い主体」だと見ている節がありますが、その関係は可変的・相互的なものではないでしょうか。もし民族が「絶対に他と交わる事の無い主体」であるとするならばそれは日本人にとってそうであったのであって、その状況は戦後も続いているわけですし、その「日本人」としての自明性を疑っていないということが逆に戦前/戦後を貫く問題として川村湊の考え方にも影響を及ぼしているのではないかと思うのです。

このことと絡んでなんですが、私がこの章の川村の問題点を2つ指摘したいと前回書いたんですけども、一つは先ほどの最後の部分、つまり「民族と階級の混同」ですが、もう一つ問題点があるとすると、やはり彼の「民族観」であると思うわけです。実は、あるときまで私も気づかなかったんですが、彼は孫文の「五族共和」を紹介しながら、「五族協和」を説明していくわけですけど、ある人と話していたらその中身を訂正された。なんと「五族共和」のほうの、「五族」の中身を間違えているんです。私は、あっ、と思いましたね。

彼は当時の日本人が「五族協和」といいながら、「五族」に対する対等な距離関係をもっていない、相手を理解しないで支配的な視点からみているということを強調しています。そうであるならば、いかに「五族」の立場からものが見れるかというのが、本当はこの本の主題にならなければならないと思うんです。しかし、孫文の「五族」の中身を間違えているのみか、よく考えてみれば本文中では「満人」と「漢人」をまったく混同させており、しかも「モンゴル人」にはまったく言及しないという愚を犯してしまっているわけです。五族の紹介でわずかに出ているところも、「蒙」と漢字表記していっこうにはばからない。この本を、中国籍のモンゴル人留学生がみたらどう思うだろうか。まったく偏っている、私たちが無視されていると思うのではないでしょうか?そういう意味ではこの本は大変罪つくりであろうかと思います。

ではどうして、こうなってしまうのか?ここからは私の憶測にすぎないけれども、彼は侵略者日本VS被侵略者中国という構図から、実は大して逃れていないのではないかと思うわけです。白系ロシアや朝鮮を入れながら、モンゴルと満洲を無視されるという構図はどうも国家意識が無意識のうちに入ってきている気がしてなりません。蘇丹さんは、川村が民族を可変的に見ていないことに意義を呈されているけれども、私は逆に国家制度に引きずられ、恣意的にまとめられた民族観をこそ問題にしたいと思います。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

RE4:川村湊のテキスト(1)−1

 投稿者:偏向者  投稿日:2004年 3月25日(木)17時04分5秒
  >蘇丹・加里耶夫さま

>そうですね。私がもし突っ込むとすれば最後の部分という事になるでしょうか。

>“これらの言葉やエピソードは、満洲国での「五族協和」という精神が、実際にはどんなものとして実現されていたかを証明しているものといえよう。つまり、どんなにこの作文の女学生が「満人」の「老郭」を懐かしく、親しみを持って思い出そうとも、それは支配階級としての日本人、そしてその下で「忠実」をモットーに働く「満人」という民族差別的な主従関係という構図を打ち壊すものとはならないのである。”(p.17)

私もこのあたり、大変問題だと思っています。たとえば、現在でも日本企業の駐在員なんかは、アーイーを雇ってこういう人間関係をつくってるだろうし、川村湊だって中国に行けば、経済的主従関係ではずっと上のほうに位置してしまうでしょう?なんだか民族問題と階級問題をどうもごっちゃにしてはいないかという感じがするんですよ。社会主義は民族問題の上に階級問題を置いて解決しようとしたわけだけど、それがいろいろ現実上うまくいかなかったときに、まだこういうこといってるってのは思想的退行としか思われないんですよね。

>私は日本人が総体として“「理念国家」の創設を目指した”とは言えないんじゃないかと思うのですね。例えば、日本人が「理念国家」の創設を目指したのだとすれば、日本人の一体どのような部分が、どのようなきっかけを持って行動に走っていったのか、個々人の動機から明らかにしていく必要があると思うのです。同じ「理念国家」とは言っても、「五族協和・王道楽土」を志向した部分と、「兵站地」を志向した部分とも分けて考える必要があるでしょうし、その二つの異なる「理念」がどのような内的関連でもってつながっていたのかも考えなければならないでしょう。

権益確保がまずありき、で、その後からそれを正当化するための理屈がついてきたというのが実際でしょう?でなければ「満蒙は日本の生命線」なんてことばが生まれるはずがない。でも実際に開拓や戦争に借り出されていった現場の人間には、純粋に理念だけを信じて進んでいった人たちもいたっていうことなんだと思いますね。

>それから日本人以外の他の民族で「満洲国」に加担していった人物の存在も考慮に入れなければならないですね。いわゆる「漢奸」「蒙奸」「朝奸」と呼ばれる人々です。それらの人々がいかなる動機を持って「満洲国」に参加していったのか、個人的な怨恨や権力欲は別としても、そこには全く否定的な意味合いしかないのか、もう少し明らかにする必要があるでしょう。ここで私が念頭に置いているのは植民地朝鮮の「親日派」といわれた部分ですが、例えば李光洙なんかも転向は転向であるにしても、多分日本人のそれより重い感じがするのですね。あの状況下で植民地朝鮮の「近代化」を推し進めるには、日本に頼る以外の方法はないのだ、というような。国民党左派の汪兆銘にも似たようなニュアンスを感じる事があります。戦後は一括して「売国奴」とされている人々の動機と行動をもう少し洗い出していく事が必要でしょう。それは「植民地近代」総体を問う事になるでしょうが。

かなり重層的な思惑が入り乱れている感じがしますよね。「虹色のトロツキー」なんて漫画がかつてありましたが、あれなんか読むとまさにトロツキー思想まで受容してしまうような、理想のためには連帯できるのだと思っていた層があったことが分かりますし、モンゴル人青年の生き様などもうまくリンクさせられていて面白く読んだ覚えがあります。

 

以上は、新着順1番目から30番目までの記事です。 1  2  3  4  |  《前のページ |  次のページ》 
/4 


[PR] トイレ 詰まり だっこ 米 額縁